MY JOURNEY
私の歩み
「やってごらん」と背中を押された少年時代
1972年、横浜で生まれ、父の転勤により幼少期は主に山梨県甲府市で暮らしました。小学校2年生のとき、転校先の伊勢小学校で担任の藤原かをる先生に出会いました。
クラスの学級委員を決める時だったと思います。まだクラスに馴染めずにいた私にこう言ってくださいました。
「できるよ、やってごらん」
先生に背中を押され、学級委員に立候補したことが、私にとって大きな転機になりました。委員になって、先生は学級運営に関する書籍(子ども向けですよ)を紹介してくださり、母にねだって購入してもらい、何度も読んだのを覚えています。自分に何が出来るのか必死に考えていたのだと思います。
「できるよ、やってごらん」を信じて、その後も学級委員に手を上げたおかげで、人前に出ることに抵抗を感じなくなりました。
中学生になると陸上部に入りました。決して足が速いわけではありませんでしたが、陸上部のスパイクシューズに憧れがありました。私の種目は「砲丸投げ」と「110mハードル」。体格の良い先輩が薦めてくれたことと、やっぱりスパイクが履きたかった。少々ストイックな性格なのか、砲丸投げもハードルも一生懸命練習しまして、砲丸投げは入賞したことがありますが、ハードルは一度も予選通過できませんでした。それでも仲間と一緒に陸上競技場まで行って練習するのは楽しかった。とても良い思い出です。中学3年生では生徒会役員に立候補。会長にはなれなかったけれど、仲間と知恵を出し合いながら学園祭を始め、廃品回収などの活動にも積極的に取り組みました。これも本当に楽しかった思い出です。
自分から手を挙げて行動すること。その行動には責任が伴うこと。そして、仲間と一緒に何かをつくり上げることの楽しさを学んだ時期であったと思います。
「子ども」と向き合った学生時代
高校時代には、全国子ども会連合会の「ジュニア・リーダー」としてボランティア活動に参加しました。地域の子どもたちをキャンプに連れて行き、飯盒炊さん、キャンプファイヤー、レクリエーションダンスなどを指導するボランティアです。
1989年には「関東甲信越静地区子ども会ジュニアリーダー研修会 山梨大会」の 実行委員長として、企画・運営に携わりました。その後、県外の仲間たちとグループを立ち上げ、自主イベントも開催しました。今の見た目からは想像もつかないと思いますが、仲間とダンスを創って踊ったりしてたんですよ。
大学は専修大学に進み、発達心理学を専攻。主に乳幼児心理学を学びました。「なぜ子どもはあんな風に行動するのか」という素朴な疑問に対して、実験という手法を用いて解いていくことに面白さを感じていました。幼稚園に通い、園児や教諭との交流を重ねながら、実験やインタビューによる研究を行いました。さらに研究を続けるため、上越教育大学大学院へ進み、発達心理学・認知心理学を学びました。修士論文は『幼稚園児における描画とイメージに関する一研究:いかにして2つの対象を統合するか』でした。ここで初めて、新潟との縁が生まれました。
大学院では研究の傍らティーチングアシスタントとして学部生の授業補助や卒業論文のアドバイスを行いました。またタイやフィリピンなどから来た多くの留学生と交流する機会を得て、母国にEメールで連絡するためにパソコン勉強会を開催したりしました。決して英語が得意ではなかったのですが、狭い部屋で4ヶ国語が飛び交う中で2時間近くも英語で語り合ったりと、タイの留学生からお礼にと本場のトムヤンクンを作ってもらって食べたりと、とても充実した学生生活を送ることができました。
社会人として、変化に向き合う
1996年、専門学校の講師として社会人生活をスタートしました。プログラミングを習得して教壇に立ちました。x68000を用いてBASIC、C言語、アセンブラと習得し、学生たちをゲームクリエイターとして業界に送り出しました。2年後には教務部長兼取締役に就任しましたが、更なるスキルアップを求めて転職しました。
1999年、富士通グループへ転職。大規模コールセンターの運営、人事として採用面接、営業として新規顧客開拓、新規事業立ち上げなどを経験しました。
2016年から2年間、事業創造大学院大学(現在は学校法人 新潟総合学園 開志創造大学大学院事業創造研究科)で社会人学生として学び、本業に活かすべく経営管理修士 (MBA)を取得しました。社会人と学生を両立させるのはなかなかに厳しい毎日でしたが、ファーストフード店で終電ギリギリまで一緒に勉強したり、ビジネスコンテストに挑戦したり(十日町市:トオコン2016学生部門賞受賞など)、厳しくも楽しい毎日を送ることができ、同窓の仲間には心から感謝しています。
現在は富士通株式会社に在籍し、品質管理部門の管理職として、契約に関する書類の審査に携わっています。新型コロナ感染拡大の影響で自宅テレワークが中心となっています。新潟県外にいるメンバー(川崎、千葉、長野、大阪、福岡など)と一緒に仕事ができるようになり、ワークスタイルの変化を楽しんでいます。
新潟市に永住しよう
時間を少し戻して、2002年に仕事の都合で横浜市から新潟市へ引っ越してきました。美味い、広い、穏やかと3拍子揃った新潟市での暮らしを気に入り、結婚を機に永住を決意しました。
子どもの成長とともにPTA活動に携わらせていただき、鏡淵小学校、白新中学校でPTA会長を務め、多くの保護者の声を耳にする機会を得ました。
それと並行して新潟市消防団、鏡淵小学校区コミュニティ協議会など、地域のさまざまな活動にも携わらせていただきました。現在も、鏡淵小学校PTA会長、白新中学校親学会顧問、自治会長、消防団機関長、などを務めており、地域の皆様と多岐に触れ合う機会をいただいています。
「見守ってもらった私」から「恩返しする私」へ
地域の皆さんに見守っていただいた長男は、社会人2年目となりました。
そして今度は、長女が鏡淵小学校で学び、地域の皆さんに見守っていただいています。
これまで地域の皆さんから受け取ってきたものを、今度は私が地域に返していきたい。
その思いから、政治家として活動することを決意しました。
新潟の良いところを残しながら、子どもたちの未来に向けて、さらに発展させていきたいと考えています。